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2017年 7月号 第91回「般若心経の話③」

多くの経典を携えて中国に帰り着いたのは、中国を出発してから十七年後の事でした。

三年の歳月をかけてインド(天竺)へたどり着いた玄奘三蔵はインドでも研鑚を重ね、多くの経典を携えて中国に帰り着いたのは、中国を出発してから十七年後の事でした。 その後、中国の明の時代に「呉承恩」という人が、日本でもおなじみの『西遊記』を書きました。 西遊記に出て来る「三蔵法師」のモデルになったのが玄奘三蔵なので、三蔵法師=玄奘三蔵のように思われがちですが、三蔵とは「経=お釈迦様が説いた教え」「律=仏教徒としての戒律」「論=経典の注釈研究」の三つを示し、それらを極めた僧を三蔵法師と呼んだので、大勢の三蔵法師がいました。 西暦六四九年五月にインドから帰り着いた玄奘三蔵は、たった一日で「般若心経」を漢訳したと伝えられています。 その頃は日本で言うと奈良時代で法隆寺が建立された頃です。 当時、日本は遣唐使を中国に派遣して、進んだ文化を学ぼうとしていました。日本からの留学生が、漢訳したばかりの般若心経を手に入れ、帰国と共に持ち帰ったのではないかと考えられています。

  • 呉承恩:ごしょうおん
  • 玄奘三蔵:げんじょうさんぞう
  • 天竺:てんじく

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